そうするべきに思えた。
やるせなさを押しのけて、起きた瞳にうつったのは雨空。 夜のうちに干してしまった洗濯物はぐっしょりと濡れていた。 「サイアク」
湿気が、梅雨の到来を告げている。 テレビの向こうで梅雨入りについて語る気象予報士を、彼女は鼻で笑う。 膨らんだ髪は、いくらワックスをつけてもまとまらない。 荒れかけた肌は、つけたばかりのファンデーションを押し返す。 「サイアク」
歩くうちに、パンプスを汚す泥水に彼女は顔をしかめた。 目的地に着くころには、整えた髪も傘のなかでほどけきって、力なく緩んでいた。 「サイアク」
時間3分前。 約束の場所まで、あと10歩ある。 視界をさえぎる柱さえなければ、彼に会えるだろう。手持ち無沙汰に、時をやりすごしている落ち着かない彼の姿が目に浮かんできた。ちょっと立つ位置をかえれば、実際に見ることだってできるだろう。
しかし、彼女の足は止まった。
雨の音はしないのに、空間は雨の匂いに満ちている。 傘から流れ落ちる滴が、磨かれた床を溺れさせていく。踵の打ち出す音はにぶい。 彼女は音をさらに潜ませながら、柱に背を向けた。視線の向こうには女性用トイレの赤いマークが、彼女を呼んでいた。 濡れたバックのなかで、ポーチもしっかり泳いでいる。マスカラやパウダーたちが、起こしてくれるのを待っている。
ガラスの彼女は、彼女の姿を笑うだろう。
時刻は2分前。足は彼よりも、ガラスの自分を求めている。
背中から、呼ぶ声があった。 はじめ、彼女の足は止まらなかった。湿気た髪で頭がいっぱいだったし、なにより彼女の耳はそのとき機能していなかった。
二度、同じ声がした。 三度目、四度目、同じ声とともに靴音がひびく。
「返事しろよ」 肩をたたかれ、彼女の足は止まった。 「っびっくりした」 「何度も呼んだ」 一瞬、なにか言いたげな顔をしてから彼は、驚く彼女を笑った。彼女は未練がましく赤いマークを見やりながら、膨らんでいるだろう髪を撫でていた。 「髪型かえた?」 「まさか」
「似合うね」 撫でていた手が止まって、次に怪訝そうな顔で彼女は「似合う」と言った男の顔を見つめた。少しの動きも見逃さないといった目で、口をヘの字に曲げて、少し突き出した顎から彼女は聞いた。 「からかってるの?」 「まさか」 少し大げさに目をあけてみせて、彼は首をふった。機嫌を損なったふうの彼女に驚くように、彼の視線は、寝癖のようにウェーブした髪の間を縫っていた。 「ホントに?」 「ほんとうだって。いつもとはまた違う感じでいいなって」
まだ少しのあいだ顔をのぞいていた彼女は、ふんと頷いて背をむけた。
「ありがとう」
背中の遠いところから、赤いマークが笑ってた。
「どういたしまして」
ガラスの彼女も笑っていた。 その笑いはきっと、嘲笑よりも、あたたかい。
title→「 霜月の泪 」
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# by sizukugaotita | 2007-05-05 22:48 | 恋 愛
目が覚めたら、城にいた。
胸元で眠っていたはずの温もりはない。 肩越しに感じていたはずの息差しもない。
沈み込むベッドのうえに独り、彼女はいた。 立ち上がれば見知らぬ女性が、厳かにお辞儀をした。 床は大理石らしく、天井からの光を白々と返していた。 右を向けば、出窓があり、まだ薄暗いなかでも広大すぎる庭がうかがえた。
「子供はどこ」 差し出された靴に足を入れながら、彼女は尋ねた。 声は高すぎる天井に木霊して、窓の向こうに吸い込まれていく。 「夫は」 重い衣服はルネサンスを彷彿とさせる華やかさに満ちていた。
「ここはどこ」 誰も答えはしない。 儀式の最中であるように人々は、慎み深く彼女の姿を清めていく。
ヒステリックに叫びだしそうなのを堪えていると、どこからともなく赤子の泣き叫ぶ声が響きわたった。
聞き覚えのある声で、彼女は息子の名を呼んだ。 自らの瞳からも落ちそうになる涙をこらえるように、強くまぶたを閉じて、手をさしのべた。
なにかが指先を温めた。 なにかが髪を撫でた。
強く耳を塞ぎ、強く目を塞ぎ、口をつぐんで、次にひらいたとき、世界は帰ってきていた。
心配そうにのぞきこんでくる夫の顔と、 涙痕もそのままに眠り込んでいる息子の姿が視界いっぱいにあった。
「夢を、みていたみたい」
彼女はただ、そう言った。
―― 人生はすべて夢、あまたの夢は一つの夢なのだから カルデロン・デ・ラ・バルカ ――
title→「 霜月の泪 」
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# by sizukugaotita | 2007-04-13 13:32 | 現 代
物事は循環する。
左手にずしりと重い刀は、鈍く光りもしない。 前に伸びた右足を左に転ずれば、乾ききった草木の萎びた声を聞く。風はなく、啼鳥も消えさり、霧時雨だけが二人の視界を暗くしていた。 相手は重手を負っても生き延びた男である。 切らねば死ぬ。
半蔵にはそれしかない。
添えた右手の強張りが、握る左の緊握が、手骨にまで響くようだった。 拳一つ分下がれば、霧中から伸びる剣先がある。煽るように、時おり揺れる剣先だったが、ぶれることは一度もない。
無心であらねばと思うほど、半蔵の体は汗にまみれていく。乾霧にもかかわらず、衣服は異様に重い。
息合いを探りながら、肩に入った力を抜こうとする。
その時だった。
首に刃が伸びた。見えたのは瞬間で、よけたのも瞬間だった。首筋から生ぬるいものが垂れる。構えたときに、男の刀は半蔵の腹めがけて振り落とされていた。
しまった。
思ったときを同じくして、身中から鈍い音がした。 剣先のかすかな開放感に目をあけてみれば、半蔵の刀は男の喉を貫いているのであった。
驚きに開口したまま、男は朽ちたようだった。 刀身にかかる重みに半蔵は刀を引きかけたが、ふと腹のあたりに動くものがあって動きを止めた。
視線を下ろしてみれば、飛焼が見えるほど近くに刀があった。 男の刀は、半蔵の右腹から臍までを両断していた。ちょうど背骨近くで刀は動きを止めていた。
「奴(やっこ)さん、何人やってきたんだ」
脇差でもないのに切れ味としては、すこぶる悪い。刀文の黒い染みに気づいた半蔵は小さく笑った。わずかな動きでも、臓腑の枯れのほどは知れた。
「手入れがなっていねぇ」 なるほど、奴は武士じゃねぇ。 蔑むように言ってから、その笑いがひどく空虚に思われた。
半蔵が崩れれば、埋まった刀は臓腑を引きずりだすだろう。 柄を離せば、男は崩れて刀は半蔵を切り裂くだろう。
半蔵は空虚に身を置くしかなかった。 霧中で独り、死人相手に半蔵は戦っていた。
「手入れがなっていねぇ」 左手にずしりと重い刀は、鈍く光りもしない。
title→「 霜月の泪 」
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# by sizukugaotita | 2007-04-02 13:54 | 歴 史
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